2013年08月12日

1945年8月9日11時2分を追って

こんばんは
よしだけいしゅん@仙台市若林区復興応援隊です

今年はお盆休みを頂いて、両親の実家のある長崎県諫早市に来ています
1年半ぶりに会う両親の祖母はふたりとも元気そうでホッとしました
今日は一日空いていたので、長崎市内を観光してきました
今回の旅のテーマは【原爆】です

原爆爆心地〜原爆資料館〜原爆死没者追悼平和祈念館〜
平和公園〜如己堂〜永井隆記念館〜浦上天主堂

上記の行程で爆心地から2km圏内あたりを徒歩で回りました
その中から、特に印象深く残った
永井隆記念館にて拝見した文章を転載します



【原子爆弾の破壊のうちで、一番おそろしいものは何であったか】

「心の傷」生き残った市民の一人一人は、「私はひきょう者だった」「私は彼を見殺しにした」などと己を責めた。原爆はあらゆるものを灰塵化したばりでなく、かげがえのない互いの心をもバラバラに引き裂いてしまった。彼らは癒しがたいうずきを感じながら、独りいては後悔に胸を打ち、隣人を見ては、また、胸を打ちつつ生きねばならなかった。
(「私たちは長崎にいた」より)

原子爆弾によって私たちが受けた被害のうちで最も大きなものは、家を失ったことでもなく、財産を焼かれたことでもなく、多くの血のつながる者や友を殺されたことでもなく、体が不自由になったり、病気になって働けなくなったことでもなく、実にそれは私自身に魂の醜さをまざまざと見せつけられ、また隣の人たちの魂の醜さをもはっきりと見たことによる、人間に対する信頼を失ったことであります。 年月がたつにつれて、物がなくなったり人が死んだりした時の悲しみや恐れなどは次第にうすれて行き、反対に魂に受けた被害の方は、いよいよ明らかになって、私を苦しめるのです。
(「如己堂随筆」より)



東日本大震災で被災された方には
この当時と似たような状況に置かれている方もいるのでは、と
そう思わずにはいられません



今日は少し涙腺が緩いようです
原爆で亡くなられた方々に思いを馳せつつ
今宵はこの辺りで筆をおきます

1945年8月9日11時2分を追って
(如己堂/13年8月12日撮影)

 ※永井隆氏についてはこちらのリンクよりご覧ください
  永井隆ストーリー 己の如く人を愛したひと


タグ :原爆長崎

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Posted by 仙台市若林区復興応援隊 at 22:28│Comments(0)吉田
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